#173:「新春初乗り 岐阜街道(愛知県編)」(08/01/03)


新春初乗りは、愛知県内の「岐阜街道」を探訪してみました。

今年は、昨年末からの寒波で、寒い日が続いてましたが、時折日が差す天候で
御一緒いただいたJJさんと2人、道草三昧の『これぞポタ!』といった初乗りでした。


「JR尾張一宮駅」で待ち合わせて、「イタ・トマ」でお茶の後、電車にて移動。

正月3日のホームには、人影もまばら。「JR木曽川町」までの、1区間だけ乗車します。
今日のバイクは、2人とも「ダホン」。なので、気楽に輪行です。
理由はって?・・・向かい風を避ける為と、今日のコースと被るのを避ける為。

降りた「JR木曽川駅」の西口は、ちょっとレトロな感じ。
ですが、もうすぐ、近代的な駅に改装されるそうです。利便性と情緒、共生出来ると良いのですが。


「黒田小学校」の校庭にある「黒田城」跡です。

今回の探訪ポタは、往時に関係しそうな物を探訪と言う事で、立ち寄ります。

「JR木曽川町駅」の西口から、線路沿いに少し南下した所に有ります。
「山内一豊」が産まれた城だそうで、NHKの大河ドラマ放映の際は、脚光を浴びてましたね。

この銅像は、「山内一豊」と名馬の逸話からでしょうね。

「黒田城」の城主の変遷が書かれてます。
ですが、「山内一豊」との関連は、産まれたと言う事だけみたい。


お昼ご飯です・・・旧国道沿いの「第一旭」さん。

実は、「イタ・トマ」での、お茶時間が長くなって・・・スタートしてすぐですが、お昼なので。笑

美味しいと話には聞いてましたが、食べるのは初めてでして。
味は、私が小さい頃に実家の方で食べていたのと同じ感じで、懐かしく、そして、美味かった!


「街道ネタ」では無いけれど・・・「尾西鉄道 木曽川橋駅跡」。

「岐阜街道」のすぐ近くに有ります。
昔は、現在の「名鉄尾西線」の「玉ノ井駅」から先に、線路が延びていました。
「玉ノ井駅」前から、北に延びる道路は、往時の廃線跡で、鉄道らしいカーブを描いてます。


「宝江の渡し跡」と「道標」。

「尾西鉄道 木曽川橋駅跡」の路地の1本西側の路地を進むと、ここに出ます。
「木曽川」から見て、二股になった部分に「左:なごや道 右:津しま 起道」の「道標」。

石碑や案内板が乱立する(?)、現在の分岐点。

「岐阜街道」に関する説明の碑も有りました。


「宝江の渡し」は関ヶ原の合戦以降で、それ以前は、もう少し東の「北方の渡し」だったそうです。

この案内板の道の反対側、「木曽川」方向に石碑も有ります(写真:右)。
この道路の先が「宝江の渡し」だったそうですが、今は何も有りません。


「北方の渡し」に向かって、「木曽川」堤防を走って行くと「北方代官所跡」が有ります。

と言っても、「JR東海道本線」のアンダーパス手前の堤防の街側下に有るので、
堤防道路からは、一段登って降りなければなりません。
当時の代官所の間取りと、「川並奉行所」についての説明版(写真)が有ります。


一度堤防から降りた(階段を担いで)ので、
また登るのも・・・。
と言う事で、「JR東海道本線」下を抜ける
通路を探して通りました。

ここ、写真の方向からはアーチ状ですが、
入った反対側は、四角い形状。
そう、途中で断面が変わるのです。

こちら側は昔からの線路、反対側は増設された
線路なので、こうなるのでしょう。


「北方渡し跡」

「国道22号線 名岐バイパス」の下をくぐって、再び堤防上に出ると、すぐです。
写真の石碑と説明板が有ります。

かつては幹線ルートであったが、関ヶ原以降は、先ほどの「宝江の渡し」に変わった。
それ以降は、歴代の尾張藩主が変わる度に「家康」が関ヶ原に向かう際に通った故事に由来し、
往時を偲び「岐阜お成り」と称して岐阜を訪れたそうです(説明板の通り)。
それゆえ、こちらからの旧街道を「お成り街道」と呼んだそうです。

現在の「北方渡し跡」を眺めて。

昔、ここから「宝江」に交通の主流が移った訳ですが、現在は「宝江」の方は「旧国道」となり、
「国道22号線 名岐バイパス」として、また、ここに戻って来ているのが面白いですよね。

たたずむ小径車2台。
ストップ&ゴーの探訪ポタには、漕ぎ出しの軽い小径車は、持って来いなんですよ!


ゆるゆると曲がった街道らしい路地を進んで「宝行寺」。

往時から「岐阜街道」、「お成り街道」沿いに有った古刹。山門といい、本堂といい、立派でした。


「お成り街道」の明示板。

「宝行寺」から少し「一宮」よりに有ります。
愛車と記念撮影のJJさん。もちろん、この後、私も、です。


そのまま路地を進み「国道22号線 名岐バイパス」を信号で渡って・・・。
昔の街道跡が、現在でも信号が付いて使われているのが、何故か嬉しかったり(なんでだろ?)。

写真左は、往時から有った用水に蓋をして出来た小公園。
古絵地図によると、この用水が村の境界線で、用水に沿って西に向かったらしい。

写真右は、用水沿いを進んで、南に(左に)折れてからの、旧街道らしい道。
この辺り、地名に「往還○○」と付くのが、街道の名残でしょうね。


「木曽川」の古くからの町並みを抜けて「主要地方道」に出た所。

枡形の様に「岐阜街道」はクランクしますが、その交差点に「木曽川町道路元標」の碑。
郵便ポストが「丸ポスト」だったら・・・モデルさんが渋いし、もっと、雰囲気あったでしょうね。


ほどなく「善龍寺」。

ここも往時からの古刹。親鸞上人に縁の有る寺だそうです。鐘楼の建物が、お城の建築物の様です。

向かいには、お地蔵様が何体も納められた「地蔵堂」や「秋葉社」も有りました。

「今伊勢」の「石刀神社」に寄り道。

住宅地化されていましたが、クネクネと曲がりながら残ってる街道を進んで、「旧国道」と合流。
「岐阜街道」はしばらく「旧国道」と重なります。
合流した所の近くの「石刀神社」に、初詣も兼ねて寄り道しました。


「石刀神社」への参道で見つけた造り酒屋の「金銀花酒造」。

先ほど通った際は、門が閉まってましたが開いていたので、ちょっと寄り道。
残念ながら、試飲はさせてもらえなかった・・・。


「尾張国六地蔵第一 彼岸縄手地蔵」

「旧国道」沿いに有ります。ここも「岐阜街道」の往時の古絵地図に載っているそうです。


「酒見神社」

平安時代からの由緒有る神社。ここが清酒の発祥の地と説明板に書かれてました。


「酒見神社」の向かいから「岐阜街道」は
旧国道を離れて「一宮」の中心部へ。

この辺り、古い家並みも残っており、
ゆるゆると曲がった街道風情が楽しめます。


「真清田神社」へ参詣。

初詣・・・先ほどもしましたが、ここへも。私事ですが、お守りを購入しました。
さすが、三が日中、たくさんの人出と、たくさんの出店・・・良い匂いがそこら中にしてました。


「一宮本町商店街」

「岐阜街道」沿いに出来た商店街だったのですね。

しかし、現在は、シャッターが降りた店も多く
寂しい本町になってしまってます。

この後、「一宮一里塚跡」の碑や、
「真清田神社 一の鳥居」の碑が有ったのですが
「殿町銭湯」の方に気を取られて・・・。笑


「妙興寺」への道標と、「赤池一里塚跡」の碑

「妙興寺」は臨済宗のお寺。起源は足利時代と、「一宮」きっての古刹であり、愛知県指定史跡。

「赤池一里塚跡」は旧国道から離れた、田んぼと住宅街の境辺りに有りました。
実は、ここの数十メートル先に、6年住んでました・・・当時はまったく興味が無かったので 笑。


「赤池(陸田)」から「下津」に向かって、こんな感じで「岐阜街道」を進みます。
(右側通行してた訳では有りません・・・写真撮影の為の『やらせ』です。)

立派な黒板壁のお屋敷・・・代々、庄屋をやっていたのでしょうか?
向かいの畑には、桜が花を付けて・・・狂い咲き?


「下津」の「岐阜街道」

どことなく昔の街道の面影は感じますが、
古い家は殆ど有りません。
ですが、古い物も残ってましたよ。

地元の方と少し話して、楽しかったです。


「岐阜街道」の終点(始点)「四谷追分」

「名古屋」の「宮」を起点に「垂井」まで行く「美濃路」と、ここで分岐なんですね。
角に「四谷追分」の石碑が有ります。

「岐阜街道」の探訪ポタは、ここで終わりなのですが、番外編として、少し続きます。


「美濃路」沿いの「六角堂」の有る「長光寺」。最近、綺麗に改修されたみたいです。

門前に、「左:京都道 右:ぎふ道」の道標が有ります。
当然、本来は、「四谷追分」に設置されていたのでしょうね。

この後、輪行で帰宅のため、「名鉄 新清洲駅」まで「美濃路」を走り、本日は終了。
もっと、色々、寄り道したかったのですが、前半で遊び過ぎました。
ですが、満足出来る探訪ポタでした。こう言う緩〜いポタ、どんどんやって行きます。
ご同行いただいたJJさん、有り難うございました。

本日の走行距離:約34kmでした。