#200:「新春初乗り 美濃路(清洲〜名古屋北部)」(09/01/02)
’09年の、新春初乗りは、昨年の「新春初乗り 岐阜街道」の終わりに走った、 「美濃路」の続きを「清洲〜名古屋北部」の「美濃路」を探訪してみました。 今年は、正月明けからの寒波で、寒い日でしたが、昨年同様、JJさんと2人、 今回の「美濃路」探訪は、JJさんに案内を、お願いしちゃいました・・・感謝です! 今年も、こんな感じの知識欲、探究心を満足させる、緩いポタ、やります! |
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今年のスタートは「甚目寺総合体育館」から。
「清洲」近辺で、車を置いて置ける場所と、言う事で、こちらへ。 で、早速、向かったのは・・・「美濃路」では無く「清洲飛行場跡」。 ですが、残念ながら見つけれませんでした・・・いや、単に事前情報不足(笑)。 |
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「長者橋」の東、富豪の邸宅前にて。
左の写真、本来はここに大きな邸宅が、有るべきですが・・・何故か、縮小されてました。 右の写真は、北を見た所で、そう、この方向に、「美濃路」は続いているのです。 |
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「枡形」にある、趣の有る家。
「枡形」とは、宿場の出入り口にクランク状の曲りを設けて、防備を図ったもの。 その後も、所々残る、趣の有る家屋を眺めながら、南へと進んで行きます。 |
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「新川橋」たもとの、ポケットパークにて。
ここには、往時の橋の欄干部分(左の写真の自転車側)と「清洲五条橋の親欄干」を利用した、 公園の奥の壁には「美濃路」に関する説明板と、「新川開削」説明板が有りました。 |
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「津島上街道」の入り口にて。
先程のポケットパークを、南に数メートル行くと、「津島上街道」の分岐が有ります。 この荒れ地に、小さく「ポケットパーク工事中」と有ったので、そのうち、こちらへ ちょっと、「街道」沿いに歩いてみた写真が右の物です。 |
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「美濃路」に戻って・・・。
左の写真は、名古屋方面を撮影してます。 JJさんの解説によると、街道部分が土手の様に高くなった土地に有るそうで、 |
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街道に口を開ける、怪しげな空間・・・路地、です。
建ち込んだ家と家の間に、こっそりと路地が存在してたりします。 当然、路地裏探検隊で、奥に向かって・・・グルッと回って、再び「街道」へ出ました。 |
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銭湯を見っけ!
今は、ほとんど見られなくなった銭湯。 昔、子供の頃に、何度か行った記憶が有って、 時間が有れば、入ってみたかったな。 |
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「問屋記念館」です。
「美濃路」に面して建てられていた、 トイレも有りますので、休憩に、お薦め。 敷地の奥へ向かうと・・・ |
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写真の部分が、「美濃路」に面していたのでしょう。
『間口が狭く、通り庭に沿って部屋が並ぶ中二階建てで、座敷は奥に・・・』と、 奥に長くって・・・「美濃」の「うだつの町並み」に有る町屋と、同じ様なのかな? |
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「泰亨車(東六軒町)」の山車蔵。
「JR線」のガード横に有ります。 この祭りは、毎年6月に行なわれているそうで、 実際に、見てみたいものです。 |
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「清音寺」です。
「枇杷島」の名前の由来の伝説に関係する寺です。(説明は右の写真をどうぞ) 「枇杷島」の名の由来には、もう一つ有って、名古屋と西枇杷島の間の庄内川に中州が有って、 どっちが、本当の由来では無く、その両方を鑑みた結果だそうですよ。 |
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「庄内川」を「枇杷島橋」で渡って・・・「名古屋市」へ。
往時も、橋が有ったのかは、分かりませんが・・・。 |
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またまた、怪しげな路地を発見!
当然、路地裏探検隊としては(この名称、定着しそうだな・・・)、調査開始(笑)。 |
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モダンな感じの外観の銭湯「中京湯」。
コンクリートで造られた「ゆ」のモニュメントが、良いじゃないですか! |
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「江川一里塚跡」です。
「浅間町」の交差点北、「名古屋高速」の高架の有る「名古屋江南線」を渡って、 「美濃路」この先で、南へ進路を変えます。(ここも、分かり難いな・・・) |
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「慶雲橋」」からの「堀川」の眺め。
冬の曇り空の下だから、 「堀川」は、防御の為の堀で有ると同時に、 その名残りが、この後行く「四間道」。 |
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石造りでは有るが、往時の面影を残す「五条橋」。
「清洲越(きよすごし)」と呼ばれる、「清洲」から町ごとの引っ越しで、ここに移された橋。 この橋より東が、武家屋敷が立ち並び、この橋の西側が、町人達の町だったそうです。 |
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「五条橋」からは、古い「名古屋」の町並みを求めてみました。
今回の「美濃路」探訪は、ここまでとして、せっかくですので、町並み探訪へ行きます。 「五条橋」から振り返ると「円頓寺商店街」のアーケード。(写真:左) 「美濃路」を「中橋」まで進みます。この辺り、古い家並を再現されてました。 |
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「四間道(しけみち)」にある「浅間神社」と「四間道」の説明板。
「四間道」の名前の由来は「元禄の大火」後、防火の意味合いで、道を四間(約7m)としたから。 |
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「四間道」の町並み。
「堀川」の水運を利用し、「名古屋城下」へ、米穀、塩、味噌、酒、薪炭などを供給する商家が、 |
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しかし、「名古屋」の、ど真ん中に、何故、こんな古い町並みが残っているのか?
大戦中の「大空襲」で、焼け落ちた「名古屋城」に近いにも関わらず、 |
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一本、路地を奥に入ると・・・。
こんな風情ある住宅が並んでいます。個人宅なので、さすがに、中は見れませんが・・・。 |
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上の右の写真の家の屋根には「屋根神様」が有りました。
左の写真が「屋根神様」のアップ。 |
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お腹が空いたので・・・「円頓寺商店街」の中にある「西アサヒ」へ。
老舗の喫茶店です。右の写真の様に、店内から中庭が見えますが、そこにも神様が祀られてたり。 |
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「ノリタケ・チャイナ」(たぶん・・・ですが)の店舗名入りの食器。(写真:左)
で、JJさんから、ご紹介いただいた「懐かしい」感じのサンドイッチ。(写真:右) |
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「西アサヒ」で、楽しい談笑して。
寒くなって来たので、帰路についてます。 左の写真の路地は、実は「名鉄」の廃線跡。 所々、狭くなったり、広くなったりしながら、 |
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「国道22号線」を渡って「枇杷島スポーツセンター」の横の道を入って・・・。
そこで道路は、左に曲がってます。 これも、帰宅後、調べ直した結果、実際の廃線跡は、「枇杷島スポーツセンター」の横から、 これは、今後の、課題ですね・・・楽しみが増えた(笑)。 |
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「美濃路」に出て、「庄内川」の土手付近。
「美濃路」の案内が有りました・・・行きも、通ったけど、見落としたんですね(笑)。 で、先ほどの「名鉄」廃線跡の「庄内川橋梁」後の、分岐を見たくて・・・。 |
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「名鉄本線 庄内川橋梁」の「名古屋市」側。
線路の西側に小さなコンクリートの橋・・・これなのか? で、町中を走っていた昭和16年までのルートは・・・。 どうしても、探訪をしていると、「名古屋」でさえ、こう言うダートを走る事になります。 この後は「新川」まで「美濃路」で戻り、「津島上街道」で「甚目寺」まで戻りました。 本日の走行距離:約31.4kmでした。 |
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